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沖縄に無いもの
「この前、沖縄に無いものを考えたよね」
「雪!」
「鉄道!」
1945年まで、沖縄には軽便鉄道嘉手納線・糸満線・与那原線の3路線が走っていた。このうち、与那原線が一番古く、大正3年に開設されている。1945年(昭和20年)、3路線とも米軍の爆撃で消滅。
今年の沖縄飛ぶ教室では、この与那原線跡を歩く。
● 昔の地図
「鉄道がどこを走っていたかを調べるには、どうすればいいの?」
「昔の地図を調べれば・・・」
参謀本部陸地測量部が大正12年に発行した地図を見る。マル秘扱い。この地図は、竹橋の国土地理院に行けば、手に入る。
「与那原線の他にも鉄道路線があるから、みつけてごらん」
「あ!ここがそうじゃない?」
「どうして、与那原まで鉄道があったの?」
「沖縄の東と西を結ぶためかな?」
「そうなんだね。沖縄の北から、あるものを運んでいたんだよ」
ヤンバルクイナのヤンバルとは、山原(ヤンバル)のこと。材木を会場輸送していた。
● 今の地図
「これが、今の地図だね」
左が5万分の1の地図。大正時代の地図と対応しているが、詳細がわからないので、2万5千分の1の地図も見てみる。昔の鉄道路線は、ほぼ現在の国道や県道になっていることがわかる。鉄道路線は直線が多いので道路に転換しやすい。
ぼくが提案し、1990年、高校修学旅行で初めて与那原鉄道の後を歩いた。一日橋までバスで行き、そこから約6キロ、地図を頼りに歩いたが、旧与那原駅がどこにあったのか不明だった。
● おばあに教えてもらう
その後、ジャパンフレネの子ども達と同じルートを歩いた。与那原警察署近くの商店で、店番をしていたおばあに聞いてみた。
「おばあ、昔、この辺を軽便が走っていませんでしたか?」
「あいやー!あったさあ!あんたらが今立っているところを軽便が走っていたさあ」
「え~!」
「どこから来たの?東京!お茶でも飲んでいきなさい」
ぼくらがたっている道の先に与那原農協があり、そこが与那原線の終点与那原駅。爆撃で駅舎は壊れたが、鉄骨だけ残り、それをもとに農協ビルができたそうだ。
農協の職員が、昔と今の地図を対比できる軽便鉄道の地図を持ってきてくれ、それを頂いた。与那原博物館でも資料を頂き、沖縄タイムス本社で与那原線の記事を探した。
真ん中の写真が与那原農協(旧与那原駅舎)。今回は右の写真、宮平から与那原の二駅分だけ歩く予定。宮平から大里までは長い直線道路でサトウキビ畑が続いていたが、現在は鶏舎や宅地が広がる。一日橋から南風原の間にある赤煉瓦の橋桁には、銃撃戦を物語る銃弾の跡が無数についていたが、今は、そこも暗渠化されている。戦後70年・・・、昔を風化させてはいけない。だから、ぼくたちは、軽便鉄道与那原線跡を歩く。
● あれこれ
午前中は、ルーティンワーク。エイドリアン先生の英語講座も。