2016年4月アーカイブ


● 教育考古学会の趣旨を読んでみてください
3月26日(土)午後1時30分から文京福祉センター江戸川橋において、『教育考古学会』第1回例会をもちました。当日、13名の参加があり、午後4時45分まで、今何が問題で、それを打開していくためのこれからの方向性について話し合いました。学者中心の肩ぐるしい会ではありません。また、すぐ役立つ教育技術を追っかけるミーハーな会でもありません。教材をベースに教材論や授業論を考えた授業づくりの会です。戦後民間教育を担ってきた世代から親・保護者、そして若き研究者まで多種多様な方々の集まりです。
まず、会の趣旨について書かれている文章をお読みください。
『教育考古学会』の立ち上げに際して
アクティブラーニング、学びあい、リフレクション、問題解決型学習(project-based learning)、探求に基づく学習(inquiry-based learning)、イエナプラン、クリティカルシンキング、インクルーシブ教育、ほめ言葉のシャワー、ホワイトボードミーティング、プロジェクトアドベンチャー、ファシリテーション&ファシリテーショングラフィック、IT教育・・・。
生まれては消え、消えてはまた生まれてくる様々な教育言説。そして、その多くは忘れ去られて行きます。 今、脚光を浴びている教育言説の多くは、教材の中身を明らかにすることなく推し進められ、形式や型を重視していく教育思想です。多くの教員は、その形だけを真似し、あたかも有意義な教育実践をしたつもりになっているのが現状です。いくらハードを固めても、授業が成立するとは限りません。教科研究や教材研究より、教室運営に人が集まる風潮に疑問を呈し、教材の中で子どもも教師もどう動いていくのか、そして楽しい授業はどのように作られていくのかを明らかにしていく作業が今こそ必要ではないでしょうか。
今の流行ものの風潮に、関西学院大学教授の吉田孝さんは、次のように述べています。
『たのしい授業』という雑誌を仮説実験授業研究会が出している。「たのしい授業、そりゃあいいに決まっているじゃなないか」という人がいるかも知れない。しかし「たのしい授業」は一般的な努力目標ではない。それは一つの思想なのである。なぜ「思想」かというと、「たのしい」という言葉の中に従来の教育の常識の否定が含まれているからだ。私なりに解釈すれば「たのしい授業はわかる授業よりも大切だ」という思想だ。
仮説実験授業研究会の板倉聖宣先生は、おおむね次のようなことを言っておられた。授業を「たのしい」か「つまらない」か、「わかる」か「わからない」かで4つに分けて考えると、よい授業は次のような順になる。
1 たのしくてわかる授業
2 わからないけどたのしい授業
3 つまらないしわからない授業
4 つまらないのにわかる授業
さらには、ひょっとしたら「わからないけどたのしい授業」のほうがよいのかも知れないとも言っておられた。いわば、「たのしい」のために「わかる」ことすら否定するのである。「たのしい授業」が一つの思想であることは明らかだ。
では「アクティブ・ラーニング」はどうだろうか。「能動的学習」と訳して、「そりゃあ勉強は受動的よりも能動的がよいに決まっている」と言ってしまえばそれまでである。それだけなら何の罪もない。もちろんたいした効果もない。しかし、これだけ猫も杓子も大騒ぎするのだから、それが単なる努力目標である訳はない。「アクティブ・ラーニング」(おそらくそのうちALなどと呼ばれるようになりそうだ)も、一つの思想なのだ。
「すぐれた内容を、能動的に学習する」というならわざわざ「アクティブ・ラーニング」などと片仮名で書く必要もない。「アクティブ」の強調は、必然的に「内容」をないがしろにすることにつながる。もちろん、内容を重視しながらアクティブな授業を追求している先生たちもいる。そういう先生たちは、アクティブ・ラーニングという言葉が出てくる前から、そういう授業を追求していた。わざわざ「アクティブ・ラーニング」を銘打つ必要もない。
「アクティブ・ラーニング」とは、内容よりも学習の形式を重視する教育思想なのである。まさにそれは形式陶冶主義そのものでもある。アクティブ・ラーニング、汎用的学力(思考力・判断力・表現力)、資質能力、形式陶冶主義。全部一本の線でつながっている(ある意味ではブレがない)。
これによって、教科教育の研究が軽視される時代がやってくる。全国の教育系の大学、大学院ではそれがすでに始まっている。それ以上、全国の教師や教育系大学の研究者に、一つの主義への支持が強要される。恐ろしい話だ。
大雑把だが、それほど間違っているとは思っていない。できたら論文にしたいのだが、ちゃんと論文にするためには、文科や国研の文書や実践の検討をきちんとしなければならない。が、もう時間がない。
(3月8日 FB上の投稿 傍線木幡)
考古学とは、先人が遺した痕跡の研究を通し、人類の活動とその変化を考察・研究する学問です。ここで言う教育考古学とは、フィールドを教育という地平に限定し、過去に残された理論や実践を現在に結びつけ、授業をベースに未来を展望していこうという新たな試みです。
そのために、埋もれていく実践や言説・忘れられた実践や言説の中から、今も活用できるものを発掘し、それを今にどのように結び付け、どう実践して行くかを考えていかなければなりません。同時に、形式や型というハードより教材というソフトを吟味していくことも必要です。
水道方式の神様と言われた岡田進・井の中から大海を撃つと豪語していた徳島の新居信正・「楽しいだけでいいんちゃうか?」楽しい派の仙波元・やまびこ学校の無着成恭・日本最高レベルの管理職、宮城の芳賀直義・「今、授業を変えなければ子どもは救われない」と言った林竹二と遠藤豊・「現代っ子」の名付け親、阿部進・学級通信ガリバーとフレネ教育の運動家村田栄一・・・。その他諸々の実践家や研究者の道筋を辿りながら、授業づくりの視点を再考していかねば・・・。
戦後民間教育を担ってきた諸先輩も高齢になり、鬼籍に入られた方も多数います。迅速にかつ慎重に楽しく実践研究を進めていきたいと思います。
ぜひ、一緒に作っていきましょう。
【会の運営と研究・実践のための課題】
※ 埋もれた理論・研究・実践を誰がどのように掘り起こすのか・・・。
※ そのためのプロジェクトをどのように形成するか・・・。
※ 掘り起こした理論・研究・実践をどの視点でどのように現実と結びつけるか・・・。
※ 会の運営や規約をどうするか・・・。
以上
2016年3月26日
教育考古学会世話人 木幡 寛
阿部 昌浩
● 算数と理科のコラボレーション
教科を分断しないで融合させ、新たなカリキュラムを作ると、こんな教材でこんな授業ができるというモデル授業を会の世話人木幡(フリースクールJF)と阿部(麻布科学実験教室)で行うことから会がスタート!
幼稚園から中学校までのカリキュラム例として、『体積・密度・比重』の面白実験(^^♪
物は場所を取る→取った場所の大きさを体積と言う→二つの物は、同時に同じ場所を取れない
同じ場所を取るためには、どちらかが移動しなければならない。
そこで、トルネードの授業!二つのペットボトルをトルネードチューブでつないで、片方に水を入れておく。水の入っているペットボトルを上に持って行くと、水はどうなる?
大人でも意外とわからない。水と空気の移動・・・。空気がものだということが理解できない。
「そういう時、幼稚園児相手にこうするんです」
木幡&阿部の絶妙の呼吸。まるで、漫才みたい。木幡が突っこみ、阿部がぼける。
続いて、「ジャガイモ・バナナは水に浮くか?」
「重いものはどうして沈むか?」
砂糖水を上のボトルに、色水を下のボトルに・・・。
あれあれ不思議、あれ不思議!砂糖水と色水が逆転!
あれこれ教師が動かなくても、教材が良ければ、子ども達は自然に動くんです。
こういうのって、アクティブラーニングって言うんじゃないの?
形じゃないよ!教材だよ!
綿密に相談したわけじゃないけれど、面白い授業がちゃんとできた(^^♪
● ビブリオバトルで発掘の優先順位を!
参加者は、影響を受けた本・自分の人生を変えた本など、紹介したい本を1冊持参。
それを5分で発表し、数分の質問を受ける。読んでみたいと思った本を投票する。
今回は、発掘したい実践の優先順位を決める。
13人が持ってきた本は、これだ!
※ 『まちがったっていいじゃないか』 森 毅(ちくま文庫) 中学生以上
まじめとか、正解とか、りりしいとか・・・、これまでの学校教育で大事にされてきたものの見方を180度変えてくれた一冊です。この本に出会って、こどもとラクに向き合えるようになりました。(神奈川 男性 私立小学校教員)
※ 『自分のからだと対話する』 依田 節夫(太郎次郎社) 子ども~大人まで
1990年に出版されたこの本は、それまでの学校体育の問題点を突き、明星学園―自由の森学園で体育実践を追及された依田節夫氏の渾身の一冊。(男性 千葉県 特別支援学校教員)
※ 『未来食』 おおたに ゆみこ
教育について考える時に、どういう方向を向いているのかということ、目標・方向性が重要だと思います。全体としては、平和で持続可能な社会の構築。個としては、人格の形成・自立自律・自分軸をしっかり持つこと。そのために、教育の前にまず考えたいことがあります。それは、「食べること」です。食事を整えることは、からだを整えること。それは味覚・感覚をとぎすませ、自分軸を取り戻す事。平和で持続可能な社会の土台となります。(女性 東京 主婦)
※ 『転移』 中島 梓(朝日新聞出版) 中高生以上
2009年に他界した中島梓(栗本薫)のがん闘病記録。最後まで食・着物・音楽・創作活動への意欲の高さが表れていて、生きることの意味を改めて考えさせらえる一冊。(女性 東京 私立高校教員)
※ 『だれのための道徳教育か』 針生 夏木 (教育誌「ひと」掲載)
道徳とは、ソコにあるものではなく、人間同士のかかわりで、今、ここの空間で生まれるものだと示した文章です。(男性 千葉 大学院生)
※ 『問い続けて』 林 竹二 (径書房)
学校というのは、本来、人間の子を人間らしい人間に育てるための場でしょう。ところが現実はそうではなく、どんな犠牲を払ってでも、いわゆる名門校に一人でも多くの卒業生を入れるということに血道をあげている。こうして、不可避的により多くの子が切り捨てられたり、陽の当たらないところに置かれることになる。だから、私は、いあま学校教育はないと思うのです。(男性 東京 NPO主宰)
※ 『新版 現代子ども気質』 阿部 進 (三一書房) 教師・親・その他
「現代っ子」の名付け親、阿部進の本。昭和30年代後半の子ども達の生の姿が生き生きと描かれています。(男性 神奈川 私塾主宰)
※ 『教育の論理』 羽仁 五郎(ダイヤモンド社) 教師・一般
副題に「文部省廃止論」とあるが、単に文部省のみを視野に入れて書かれたものではなく、教師の姿勢、立脚すべき立場を示す内容である。昭和58年に出版されたものなので「古い情報」もあるけれども、文科省の態度は、当時から貫かれているものと全く変わらない。私がどういう姿勢で教育に携わればよいかを考える上で、重要な本である。(男性 神奈川 小学校教師)
※ 『私の授業観』 斎藤喜博 (明治図書) 教師
「教育とは、授業とはどういうものか?」授業は「教師の力量」で決まってくる。教師は教材と対面し、教材に対して、自分なりの解釈やイメージをしっかり作り上げる必要がある。子ども達の可能性は、質の高い教材を媒介にし、触発され、引き出されていくものだ。そういう授業によって子ども達は学び、変わっていく。古い本ではあるが、今も新しいことを気づかせてくれる一冊である。(女性 山梨 公立小学校教員)
※ 『戦後教育論』 村田 栄一 (社会評論社) 教師
私を変えた三人(村田栄一・遠山啓・遠藤豊)の一人。政治とは、国政だけを考えるものではない。学校や学年、そして教室のなかで自己の生きざまをどうさらけ出すのか・・・。そのことを痛切に感じ、闘うことの意味を教えてくれた。(男性 東京 私塾主宰)
※ 遠山啓著作集数学教育論シリーズ5 『量とはなにか』 遠山 啓 (太郎次郎社) 教師
「数は実在の反映である」という氏の基本的場考え方が、量を背景とした算数教育の優れた実践を創ってきた。それらが今消えつつある中で、あらためて「算数を学ぶのは何故か?」という根本的な問いを立てなければならないとおもう。その時、この問いに迫るために必読の書である。(男性 山梨 団体職員)
※ 『私の中の囚人』 川口 幸宏 (高文研) 教師・一般
ある一人の破滅的な道を歩む悩める青年が、自身の虚飾をいかに剥いでいくか。友人や先生とのやり取り、はたまた恋の話、プライベートな営みを淡々と綴りながら、さらに内なる自身の日記を通して、自分をさらけ出している。この過程を含めて、自立していく様を描いた私的な自伝。 (男性 埼玉 大学生)
発表の後、読んでみたい本を投票。結果、次のような発掘のための優先順位がついた。
『自分のからだと対話する』→ 『量とはなにか』→ 『まちがったっていいじゃないか』・ 『未来食』
の順に実践を掘り起こしていくことにした。そのためのプロジェクトをどうするのかも含め、次回までに提案者が煮詰めてくることになった。
これらの本の中に、ハウツー本が一冊もない。そりゃそうだ。ハウツー本に人生を変えられるわけがない。すぐ役に立つものは、すぐ役に立たなくなる。身体の根幹を鍛えてくれないからだ。
林竹二、斎藤喜博、村田栄一、渋い!何より嬉しかったのは、明星、自由の森と実践を互いに支えあってきた依田節夫が一番最初のプロジェクトに入ったことだ。次回もリブリオバトルをやろう!
合宿も提案されたし、しばらくは発掘の旅が続くだろう。
会終了後、若き研究者から問題提起が幾つか出た。
「ここに集まったみなさんの持ってきた本をみてもわかるように、戦後民間教育のある時期のにおいがありますよね。それらがどのように形成されてきたのかとか、同じ民間運動でもひと誌や明星学園と他の民間教育運動では、これまた違う。そういう差異にも興味があります」
これらも含めて研究者の視点から、プロジェクト形成のための提起をすることをお願いした。
● 懇親会
会終了後、南池袋『ゴッチス』で飲み会(^^♪
話題はつきません。次回は、5月28日(土)護国寺で行います。
