なんだか みょうに時間を感じた
このひまわりの 生きてきたわずかな時間
わたしは 何をしていたのだろう
芽の出る瞬間
花の咲く瞬間
どんな姿になっても ひまわりは生きている
だから 私の絵の中で生きてもらうことにした
―依田節夫(「田上麦文『ひまわり』の実践から見えてくる授業の原則」より)
● 依田節夫から学ぶ―本木貴史
5月28日(土)、午後1時半から午後5時まで、護国寺のアカデミー音羽にて、第2回教育考古学会が行われた。埋もれさせてはいけない教育実践を掘り起こし、それをどう今に位置づけるかを考えている。
今回は、明星学園から自由の森学園にわたり、一緒に授業づくりを考えてきた故依田節夫の実践を考えてみた。
まず、学校教員本木貴史さんが『今、依田節夫から何を学ぶか』(その授業観と教育観)と題し、1時間半、実技も交え、説明していただいた。
1.『からだの主人公になる』とは
・記録主義、根性主義、ガンバリズムに陥りがちな従来の日本の体育教育に対するアンチテーゼとして、からだ(主体)に向き合うことを重視するということ。
2.『からだ育てとしての体育』とは
・子ども自身が自らのからだを育てていくこと。
・肉体と精神、それをつなぐ感覚の教育、たましいの教育、からだまるごとの教育であるということ。
・教材という外なる身体文化を内なるものへと獲得すること。
3.依田の教育観―教育としての体育
・笛と号令を排す
・自分には自分のからだの歴史がある。
・問いかける。
・『より基本的なことを、より少なく、より深く、発生的・形成的な方法によって授業を作り出し、思考する力・想像や想像する力を育てる』
・表現にまで高める(体育では、民舞、太鼓、感想文や作文など)
4.依田の思想・実践から、現在の体育、教育問題を捉え直す
・組体操問題⇒安全を確保することと、何を表現しようとするのかということ。
・体罰=体育教師、力で押さえつける教育、『問いと答えの間』が削られていく成果主義など⇒子どもから学んだことを返していくということ・・・。
※ 演劇と子どもの遊びと体育・・・種目が多い方がいいのか、少ない方がいいのか
※ 小中高の体育の授業は、段階が違う
※ 学校体育の歴史的背景
※ 教育と体育の両輪
※ 子どもから学んだことを返していくということ
● 田上麦文 『ひまわり』の実践から見えてくる授業の原則
依田節夫は、あまり饒舌に語らない教師だった。体育以外の授業論や授業づくりに関しては、恐らく、これしかないものと思われる。
これに関しては、いささか長いが、木幡レポートを見ていただきたい。
依田節夫の授業原則について、考えたこと
木幡 寛
依田節夫との付き合いは、長い。1979年から1985年の明星学園、そして1985年年から1998年までの自由の森学園、延べ20年にわたり、共に授業について考えてきた。
彼は、あまり語らず周りと衝突することを嫌い、ひたすら沈黙することも多かった。
<田上麦文『ひまわり』の実践から見えてくる授業の原則>にしても、1993年9月の自由の森学園校内研究会で発表されただけで、自由の森学園の研究誌『じゆうの森』にも掲載されていない。また、彼の文章は、自由の森学園の研究誌『じゆうの森』に何一つ書かれていない(1996年段階まで)。体育に関しては、幾つかの雑誌に実践記録や授業論を発表し、それらをまとめた『自分のからだと対話する』(1990 太郎次郎社)が唯一の記録になっている。
ここでは、体育以外の授業に関して唯一残っている<田上麦文『ひまわり』の実践から見えてくる授業の原則>(1993)をベースに彼の授業原則とそれを取り巻くあれこれについて考え、メモ書きにしてみた。
● 斎藤喜博の影響
「・・・学ぶ主体は、子どもなんです。しかし、働きかける主体はどこまでも教師なんです。教師が授業の主体者にならなければならない。教師側が強力に授業の主体者になり、中心になったときに、子どもたちは確実に学ぶことができ、学習する権利を保障されたということになるんです。・・・」
※『教師の仕事と技術』P49 斎藤喜博(1979 国土社)
※ 同書P50 別紙参照
※『見えないものを見るために』 (研究誌『じゆうの森』1993 木幡寛)参照
依田のあげている七点<a 願いがあること b 困難にぶつけること c 問いかけること d 的確な指導があるということ e 吟味をすること f 常識や固定観念を打ちやぶること g 新しい自己の発見ということ>は、明確に斎藤喜博の影響を受けていると思われる。これに関しては、さらなる吟味が必要。
しかし、現在の教育実践には、ほとんどこれらが見られない。教師にも子どもにも構えがない。安直な道、コツや誰にでもできるような方法をセミナーで教えてほしい的教師の増加。すぐ役に立つことは、ほとんど役に立たない。依田の言う七つの原点に戻る必要がある。
※ あるいは、林竹二(宮城教育大学長)や依田の師匠である中森孜郎(宮城教育大)の諸著作の吟味。
※ 『教師教育の基本的課題』中森孜郎 (1993 『教師教育研究』)
● 依田のあげている七点を原則に、それとは違う観点も出てこないか
『子ども達の可能性を引き出すための授業』(斎藤喜博『教育学のすすめ』筑摩書房)とは、別の視点。例えば、教師と子どものスパークの中やこどもの興味関心から出てきた教材の授業化で結果として生まれてくる<互いの可能性・互いの自己や互いの生の拡充>。
「ああ、ぼくが考えていたのは、こういうことだったのかもしれない」
「こういうぼくになりたかった」
つまり、未来完了的な自己に出会える授業。
※ 『授業づくりの覚書』(2010 木幡 寛)参照
● なぜ、<斎藤 喜博―依田節夫>ラインの実践が出てこなくなったのかの吟味
様々な民間教育運動の実践が出て来ては、消えていった。一人の教師が次の地平で何を作っていくかということ・・・。
● 田上麦文との対話
1993年の校内研究会で遠藤豊にこう質問された。
「この実践は、田上君以外の誰がやっても、こうなるのか?」
「いや、それは、絶対にない」
鮮烈に記憶している。
他の教師が実践しても、こうならなかった。
二回目の実践では、上手くいかなかった。
1992年深大寺近くの農家に咲くひまわりに圧倒され、農家から数十本のヒマワリをもらってきた。枯れていくひまわりを見て、授業になりそうな予感がした。若かった自分と子どもの関わり。160人の子ども全員が関わってくれた。
依田節夫や木幡寛に憧れて教師になったが、今は、その時とは違う俺がいると思っている。俺と木幡は瞬時の感覚で言葉を発することができるが、依田節夫はそれができない。言葉を練って子どもにぶつける教師。
ある時、依田さんに訊いた。
「依田さんの専門は、何なの?踊り?太鼓?
すると、依田さんは、怒ったようにぶぜんとしてこう答えた。
「子どもを良くすることが、俺の専門だ」
ああ、訊いちゃいけない事を聞いちゃったなと、反省した。
「人生っていいもんだ」ってことを伝えたかったんだと思う。
依田節夫は、関係性を大事にする教師だったかもしれない。
だって、明星を辞めた時、木幡と遠藤豊はぼろくそに攻撃されたけれど、依田節夫は、そうはならなかった。
※ なくなる直前、依田は京都の工芸学校の案内を取り寄せている。本気で工芸の職人になろうとしていた・・・。
2016・05・28


これらの絵画に対する実践を見出す依田の見識と授業づくりの観点は、至極まっとうだ。


問題は、今、何故、斎藤喜博→依田節夫ラインのような実践が出てこないのか?ということ・・・。
久しぶりに斎藤喜博と依田節夫を読み返し、複雑な気持ちになった・・・。