2019年5月アーカイブ
「民衆の間で語り継がれた物語は、それぞれ何らかの形で残酷性を含んでいるものである。狼に食べられる小山羊とか、狸汁にされてしまう狸とか、父親に撃ち殺される少年(マテオ・ファルコーネ)とか、その残酷性においてむしろ社会の真実と深く触れ合ってきたのであろう。そしてこどもたちはそのような「闇」の部分によって心を鍛えられ、それらの「影」を持つことによって浮き彫りにされる物語の主題からさまざまな生き方のリアリティを受け取って育ったのではなかろうか」
村田栄一(『無援の前線』P72~73 社会評論社 1971)
『マテオ・ファルコーネ』は『カルメン』で有名なフランスの作家プロスペル・メリメ(1803~1870)の処女作と言われている。とても短い話だし、ある意味ショッキングな話でもある。子ども達に読み聞かせしてみた。
舞台になったコルシカ島がどこにあるのか、地図帳で調べる。
簡単にあらすじを書いてみよう。
舞台は、17世紀のフランス領コルシカ島。
マテオは銃の名人であり、コルシカ島の人々から尊敬されていた。
ある日、マテオは妻と一緒に家畜の様子を見に、遠くの雑木林に行く。
10歳の息子フォルトゥナトが留守番だ。

そこに兵隊に追われてけがをしたおたずね者が逃げてくる。
そのおたずね者は、フォルトゥナトに助けを求め、かくまってくれるよう頼む。
5フランの銀貨をもらったフォルトゥナトは、おたずね者を庭の干し草の山の中にかくまった。
じき、銃を持った兵隊達が現れ、おたずね者の居場所をたずねる。
詰問する兵隊にフォルトゥナトは、父がマテオ・ファルコーネであることを告げる。
兵隊たちは、それを聞いて帰ろうとしたが、隊長は居場所場所を教えてくれるならば銀時計をやることを約束する。銀時計の誘惑に負けたフォルトゥナトは、干し草の山を指さし、おたずね者は逮捕されてしまった。
ちょうどその時、マテオと妻が雑木林から帰ってきた。
おたずね者は叫ぶ。「ここは裏切り者の家だ!」
フォルトゥナトはおたずね者からもらった銀貨を捨てる。
当時のコルシカ島では、どんなおたずね者でも助けを求めてきた者に救いの手を差し伸べるのが仁義であった。
隊長は、お前の息子のおかげでおたずね者を逮捕できたことを告げる。
銀時計をみつけたマテオは、それを力いっぱい石に投げつけ粉々にし、妻にこう言う。
「おい、この子は俺の子か!」
マテオはフォルトゥナトを引き連れ、雑木林の中に連れて行く。
10歳のフォルトゥナトは、泣きながら許しを請う。
「お父さん、もうこんなことはしないから許してください!」
すがりつくフォルトゥナトに祈りをささげさせ、マテオは銃の引き金を引き、フォルトゥナトを即死させた。
マテオの妻は、「あの子に何をしたの!」と叫ぶのだったが、「さばきだ。あの子はキリスト教徒として死んだ」と告げるだけであった。
● こういう話は、あり得るのだろうか?
小2から中3の子どもたちは、真剣そのもの・・・。
いろんな考えや意見が出てくる。
「こんな話、あり得ないよ」
「時代が違うよ」
「今だったら、大変な問題になってしまうよ」
「でも、裏切ったことは許されないと思ったんじゃないの?」
「おたずね者を兵隊に教えたって悪くないと思う」
「おたずね者の事を兵隊に教えても裏切りにならないと思う」
「いやあ、違うんじゃないかなあ?この少年はマテオの家の者で初めて裏切ったんだよ」
「時代によって価値観が変わるんだよ」
「裏切ったことは悪いと思うけれど、それで殺されるってことはないんじゃないの?」
最後にみんなに訊いてみた。
「こういうのって道徳の授業になると思う?」
「いや、絶対にならない!」
「裏切ったり、約束を破ると殺されるって話にはならない」
今、『マテオ・ファルコーネ』で授業するってことは、あまりないだろう。
そもそも、この作品がなかなか手に入らない。
17世紀のコルシカの状況や宗教的背景もなかなか理解できない。
何より驚きなのは、マテオが我が息子フォルトウナトを殺す理由がくどくどと書かれていないことだ。逆にフォルトゥナトが時計に心を奪われ裏切りに至る描写は、これでもかというくらい詳細に書かれている。マテオの『暴力論』?の理由がわからないまま、話が淡々と進んでいく。
そして、もっと驚くことは『マテオ・ファルコーネ』が1960年代の少年少女文学全集の中に収録されているということである。

手元にあるのは『少年少女世界文学全集26巻』昭和33年 大日本雄弁会講談社、『少年少女世界文学全集11巻』1969年 学研、この2冊だが、『ああ無情』、「三銃士」、『モンテ・クリスト伯』などと一緒に収録され、監修者には小川未明・志賀直哉・福原麟太郎・坪田譲治などが名を連ねている。
いわゆる今でいうところの教育的配慮の感覚が全く違うことになるのだが、ほぼ同時代の『刃物を持たない運動』を推し進めていた皆さんは、『マテオ・ファルコーネ』をどのようにとらえていたのだろうか?
思うに1950年代後半から1960年代にかけて、日本は高度経済成長の途上にあったのだが、まだ戦後の貧しさも残っていた。傷痍軍人が路上に立ち、集団就職列車で北海道の片田舎からキューポラのある町川口に行った友達もたくさんいた。
芝居小屋では『母子物』や『ままこいじめ』が上演され、大人50円子ども30円の木戸銭を払い、家族で芝居見物に行ったものだ。実は『マテオ・ファルコーネ』を初めて知ったのも旅回りの一座の芝居で見たからだ。
光と影が混在し、教育的配慮の価値観が今とは全く違うところでぼくたちは生きていたに違いない。問われるのは、そういう光と影の中でどれほどの想像力を働かせることができるのかということだ。
同時に親鸞の『歎異抄』に書かれている、
『善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや』という世界と『マテオファルコーネ』の世界観が全く違うこと、キリスト教的・ヨーロッパ的世界観と仏教的・東洋的世界観の違いも、どこかで考えなければならないと思う・・・。
授業は、奥が深い・・・。
